ついでに誘われて、座禅を試してきました。もっとも、ぼくは道場に入れてもらったこともあって、それなりなのですが、久々に座ると違います。ただ座る。これでは、何も救われないのですが、それでも座る。只管打坐、これを感傷的に考える人もいるのでしょうが、ぼくには、マグローヒルの数学の本を読むほうがよほど意味があるようにしか思えません。こういった宗教の嘘をいい加減に人類は乗り越えるべきだと思ってしまうのでした。数学を夜にぐっと頑張って、ちょっとひらめいて、頑張ってみる。そうした経験のほうが、よほど宗教的だと思います。嘘はいけない、いいかげん、宗教をやっている人は、こうした頭脳の能力と、宗教をわけてもいいのではないでしょうか。
頑張るとか意味があるとかいった概念に価値を置くことも一種の価値観ですが、良し悪しではなく一時的にそこから離れることが座禅の意義かと思います。坐ることは当然、何の生産性もありません。僕は坐るときは今何も生産していない自分についてつらつら考えます。
投稿情報: kinoko | 2008-08-15 16:47